◆越前カレー伝説其の参 
勝家とお市 北庄(きたのしょう)

福井県のミディトマト・越のルビー、永平寺町上志比地区特産のにんにく、三国三里浜のはならっきょ、福井梅の梅肉で漬けた越前漬物、近江牛すじ肉、福井県産牛すじ肉の入った豪華ご当地カレー
二人の人生に重ね合わせた濃厚な味です。

越前梅肉漬

三姉妹をモチーフにした食材も入っています。
是非ご賞味を。
10月中は草の根販売。
11月にパッケージ完成。本格発売です。
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解説

北の庄炎上 勝家とお市
 一五八三年、ふたりはここ越前北の庄でその生涯を終えました。
 羽柴秀吉との対立による政略結婚といわれていますが、勝家はお市の娘((茶々、初、江与)ともども大切に扱い、二人は仲睦まじくここで暮らしたと伝えられています。

勝家とお市の肖像画
◆柴田勝家
尾張に生まれ、
織田家に古くから仕えた武将です。特に織田信長の元で活躍し武功を立て、猛将として名を馳せました
 信長亡き後、織田政権を支えるためお市と再婚。北の庄では、お市と三人の娘をとても大切に扱ったそうです。
しかし、織田家の相続をめぐり羽柴秀吉と対立し、1583年に賤ヶ岳で決戦するも敗れ、その年4月、お市の方と共に、居城北ノ庄城で自刃しました。
 勝家は軍事面だけではなく、秀吉に先立ち戦国大名の中で一番最初に行われた刀狩を行い、その鉄で橋作りを行い現在の福井市の基盤をつくるなど、政治面にもまた、優れた能力を持っていたそうです。
 また勝家は賤ヶ岳の戦いで敗因となった前田利家の撤退についても、利家の苦しい立場を理解し咎めなかったなど「誠実で潔い人間であった」と言われています。
 北の庄に引き上げた勝家城を囲む羽柴軍を見て最期を悟り、周りの者に城からの退去を諭すも、お市も家臣も受け入れず、市の三人姉妹を退去させた後、一族とお市を刺し自身壮絶に割腹したと伝えられています。享年67歳
辞世 
 「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
◆お市の方
1567年に織田家と浅井家
の同盟のため、近江の浅井長政と政略結婚しました。しかし、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は途絶えました
 義景が姉川の戦いで敗北した後、1573年に小谷城が陥落し、夫・長政、長政の父・久政も信長に敗れ自害した。市は3人の娘(茶々、初、江)とともに藤掛永勝らによって救出され織田家に引き取られます。
そして、信長没後1582年に織田政権の安定のため柴田勝家と再婚します。
 しかし、翌1583年、夫の勝家が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉敗れ勝家と共に越前北ノ庄城内で自害しました。享年37
辞世 
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
お市の方は、戦国一の美女と賞され、背も高く、聡明だったと伝えられています。落城の際三姉妹に「浅井の血を絶やしてはならない」と、三人の娘に言い聞かせたという。長女茶々は当時の最高権力者秀吉に嫁ぎ、子秀頼と共に大阪城で命を落としました。しかし、次女のは京極高次の正室常光院に、三女(崇源院)は秀吉と対立する徳川家に嫁ぎ多くの子を成し、その血筋は、脈々と現在に至るまで続いています。
◆北の庄とその周辺のみどころ
勝家とお市が暮らした北の庄は、県都福井市の市街地で城石を発掘し史跡公園として整備されています。そして、毎年恒例、ふくい春まつり・時代行列では、有名俳優
が扮する“柴田勝家公”と一般市民から選ばれた“お市の方” をはじめ、ゆかりの武将たちが街を練り歩き、当時が偲ばれます。
落城後は、江戸時代になり、初代福井藩主・結城秀康が築城し、約270年間に渡る松平家繁栄の舞台となった名城跡「福井城址」や、松平家の別邸「養浩館・庭園」、市の中心部を流れる足羽川の堤防の桜並木や市民の憩いの場『足羽山』が代表的な名所 となっています。
また、一乗朝倉氏遺跡、大本山永平寺、奇岩が続く越前海岸・東尋坊、全国でも珍しい伝統工芸の集積地など、越前、ふくいはみどころいっぱい。
また、ご当地グルメ『越前がに』『越前そば』(大根おろしで食べる食文化)『ソースかつ丼』、『へしこさば』などおいしさも盛りだくさん。
是非一度お越しください。

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