◆国分寺

聖武天皇は、神亀5年(728)、天平9年(737)各国に仏像の造像、経文書写をさせています。天平13年諸国に国分僧寺・尼寺建立の詔(みことのり)を出しています。これ等は仏の力にすがり国家の平安を得ようとする政策でした。

 天平13年2月24日の詔に国分寺・国分尼寺について、「そもそも、七重塔を建造する寺は、国の華ともいうべきで、必ず好い場所をえらんで、本当に永久であるようにすべきである。人家に近くて悪臭が及ぶのはよくないし、人家から遠くては、参集の人々を労(つか)れさせるので好ましくない。国司らは各々国分寺を厳かに飾るように努め、あわせて清浄を保つようにせよ。間近に諸天(四天王)を感嘆させ、諸夫がその地に臨んで擁護されることを乞い願うものである・・・。」
(『続日本紀』宇治谷孟語訳)とあって、国分寺建立の場所としては、人家より離れてはいるがそう遠くなく、国の象徴として好ましい所を指定しています。国司との関わりが深い官寺ですから、国府に近い場所を想定していたものと考えられます。

 現在の国分寺(越前市京町)の位置や規模は奈良時代のものとは違うであろうことは言うまでもないことですが、武生に国分寺が存在することは見逃せない事実です。たとえ、後世に建立された寺院であろうと国分寺をそう場違いの所に建てる筈はないからです。

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